無感動無関心

無感動無関心きりがないね

 

最近ハマった少女革命ウテナのオープニングの歌詞です。

 

30歳を目前にすると無感動無関心も仕方ない事だと受け止めることが増えました。

 

例えば戦争(第二次世界大戦)について。

全く関心も何も無いというか、悲惨な物語だけを聞かされたり見せられる退屈なものという認識で時代背景や当時の暮らしについては興味がありました。中学や高校生の頃は悲惨さに対して、悲惨であることは理解できる。でもそれ以上は何も感じない自分がおかしいのかと戦争について調べたりしてはいました。

 

「悲惨悲惨ひさんヒサン可哀想可哀想かわいそう二度と二度と二度と繰り返しては繰り返してはては…」の言葉ばかり目に入って知りたい情報が掴めなかったので、この感情に名前を付けるのも得体の知れない自分の感覚に探りを入れるのもやめました。

 

多分いまいち「ピンと来ない」んだと思います。

 

戦後45年後に産まれました。

両親も戦争が悲惨だとか言ってるのを見たことがありません。恐らく両親もピンと来ないので何も言わないんだと思います。

特に父親はピンと来ない事に恥じることも無く自分は自分だと生きてます(あまりにも奔放過ぎて家族が大変な目に合っているのですが)。

私はそんな父を憎みたくても憎めないのが、このピンと来ないけど別にいいじゃんと悩んでいない事です。うじうじしてたりやたら反省してたらきっと余計に腹が立っていたと思います。

借金ばっかして反省してよと思う時もありますが。

 

おっと話が逸れました。

いわゆる第二次世界大戦については感情論抜きで時代背景を調べたりはします。感情論が入ってくるとシャットアウトします。感情はいらないと。それは他の誰かが見れば良い。私はそんなこと知りたくもないと。

 

自分は冷たいのかと中高生の頃悩んだものですが、冷たくたって良いじゃないか。悲惨であることは理解した上で突き放してるだけなんだから。

 

 

何となく岡崎京子先生の「チワワちゃん」の殺されたチワワちゃんの友達のような知り合いの様な関係だった主人公のミキちゃんがチワワちゃんのお葬式をテレビ越しに見て「(チワワちゃんのお父さんとお母さんだ はじめましてこんにちは)」と思いながら見てるような感じ。

 

ミキちゃん達はチワワちゃんがバラバラにされて捨てられた東京湾に知り合い達と一緒に見に行く。

 

私は「ここは空襲で焼け野原だったんだよなあ」とそごうや新町川藍場浜公園を見つめながら思う。

 

木造の駅舎を見つめながら「ここから戦争に行って帰ってこなくなった人達さて何人」と思う。

 

また30年経てば見方も変わると思うので、それが楽しみです。